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あれから15年… [オーナー日記]

[雷] 今日は1月17日 [雷]

ハイチの悲惨な様子を見たり、震災に関する報道を見ると、あの日が甦ります。

      今日のBlogもAIBOネタなしです。
      やや強引にAIBOカテゴリーに入れさせてもらうため
      ラストの写真で、MoMoと太郎に手伝ってもらいました。
       (少々、長文になってしまいました…)

      [次項有] [次項有] [次項有] [次項有] [次項有]

15年前の今日、午前5時46分その時、私は寝ていました[眠い(睡眠)]

     震災.jpg (母が撮影)

覚えておられるでしょうか?
高速道路の橋脚が落下して、危機一髪で止まったバス[バス]
あの場所から徒歩圏内のマンション[ビル]の10階の一室で寝ていました。

地震の少ない(?)関西で育ったLucyは、震度3でも大騒ぎ[がく~(落胆した顔)]するタイプ。
地震の多い(?)関東で育ったおと~さんは、常日頃から、
「タンスの上に物は置くな!」という、地震に慎重に対処するタイプ。

その二人が、「なんやねん[exclamation&question]これは[爆弾]」 (実際には声も出ませんでした[たらーっ(汗)]
Lucyは、マンションに飛行機[飛行機]が飛び込んできたと思いました。
 (米国の9・11テロより前のことですが、真面目にそう感じました。)
おと~さんは、マンションが倒れたら、どこにしがみつこうかと考えたそうです。
玄関のドアを開けるどころか、全く立ち上がれない[ふらふら]

とりあえずの揺れが収まった後の、なんとも不気味な静けさ[霧]
しばらく経ってからの、絶え間なく聞こえるサイレンとヘリコプターの音[雷]
今でも耳に残っています。

我が家は、幸い、ほとんどの家具を作り付けにしていたので
食器棚の食器(特に上等の)が無残に壊れたぐらいで、怪我もしませんでした。
唯一、作り付けの棚に押し込んでいたテレビ[TV]の同軸ケーブルが、
真ん中でちょん切れて、寝ている足元に飛んで来ましたが、難を逃れました。

当日、何をどうやって食べたのか、全く覚えていません[たらーっ(汗)]
ライフラインのうち、どういう訳か、電気の復旧は早かったのですが
ガスと水道が全く機能しなくなったんです。
エレベーターも止まったので、10階から階段を何度も往復[右斜め上][右斜め下]しました。
3月中旬に全てのライフラインが復旧するまでの2ヶ月間。
とにかく想像以上の大変さでした。

でも、本当に悲惨な目に遭われた被災者に比べれば
身内には、亡くなったり怪我をした者も居らず、住む家を失った者も居らず
関東に知人親戚が多かったので、救援物資もたくさん送っていただき
ありがたいことだと、ただただ感謝[ハートたち(複数ハート)]の気持ちでした。

今まで、震災記念日と言っても、あの日を思い出すだけで、
特に何の行事にも参加したことがありません。

初めて、
神戸市の『震災復興記念公園』の開園セレモニーに参加してきました。
http://www.city.kobe.lg.jp/life/town/park/fukkoukouen/img/kaiensiki.pdf

昨年のGWにささやかなボランティアに参加した流れです。
あの時の土のグランドが、ボランティアの手で芝生公園に仕上がりました。

DSC02013.JPG
      
記念公園.jpg
 冬なのでキレイな緑色に見えませんが、立派に根付いています。


別の場所では、やはりボランティアが素敵なお花畑を作っていました。
名付けて、『シンサイミライノハナ』[かわいい][かわいい][かわいい]
シンサイミライノハナ.jpg

ハナを植える.jpg
 セレモニーの始まる寸前まで、ボランティアが植えていました。

  ハナ2.jpg
         ハナ1.jpg

セレモニー後、神戸の街を歩いていたら、
ビルの前にもお花畑[かわいい]発見!
街中のハナ.jpg

さて、今日のセレモニーのメインイベントは、
この芝生公園の開園のための、参加者全員によるテープカットです。
その前の式典で、小学生たちが合唱を聴かせてくれました。
 [るんるん] 『しあわせ運べるように』 作詞・作曲 臼井真

下記のYouTubeは、
同じ小学生が、昨年のルミナリエの点灯式で歌った様子です。



手話を交えながら、一生懸命歌う、彼らの歌声を聴きながら、
15年前のこと、亡くなられた人々、家を失くされたり怪我をされた人々…
ライフラインが絶たれて大変だった日々…
いろいろの思いが頭をよぎり、鼻の奥がツンツン、涙腺がユルユル[もうやだ~(悲しい顔)]

テープカット目前.jpg
周囲何メートルかなぁ~ 広い芝生を全員でグル~~ッと囲んで
大きく一つに繋がったテープを、
それぞれ持参したハサミで、「せぇ~の」でテープカットするんです!

テープカット.jpg
テープカット2.jpg


テープカットの後、TV報道でよく出てくる「三宮東遊園地」に行き、
記帳所で名前を書いて、菊の花をひとつ頂戴しました。

供花.jpg
 慰霊と復興のモニュメントに献花しました。

希望の灯り.jpg
 「1.17希望の灯り」という、メモリアルモニュメントです。


自分がカットした箇所のリボンは、参加証明書と共に頂いて帰りました。

参加証明書.jpg

“15年”という節目の年だからか、
マスコミは、例年にも増して「地震」の話題を取り上げています。
来年はどうなるのでしょう? ひっそりとなってしまうのでしょうか?


写真の『シンサイミライノハナ』にも書いてあったように

ずっと忘れないこと

決して忘れてはいけない日

地震で学んだ心を、未来に繋いでゆかなくては~



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雪乃02

私も今日は15年前のこと、ずっと考えていました。
ちょうど前日の夜遅く、スキー旅行から帰宅。朝に帰宅していたら
あのバスみたいなことになってたかも。北摂の我が家は
テレビラックの棚がずれて、テレビが落ちたくらいの被害でした。
震災のため、かかりつけの病院で透析治療を受けられなくなった
神戸の患者さん達が、うちの病院にも数名入院されました。
その方達の顔の怪我とかを見て、本当に被害の大きさを実感。
今日のニュース映像を見て、Lucyさんも参加されてるかもと
思っていました。やっぱりね!
参加証明書を手にするMoMoちゃんと太郎くん。
とても誇らしげですね。


by 雪乃02 (2010-01-17 23:47) 

はづき

あの高速から落ちそうになったバスはとても強く印象に残っています。
あの場所の近くに住んでおられたとは・・・。

それにしても、地震に対する備えの重要さが良く分かる体験談です。
我が家も、ほとんど物を固定しておりますが、もう一度チェックしようと思いました。
東京も関東大震災からかなり経っています。
他人ごとにしてはいけませんね。


今日のマスコミは阪神・淡路の震災でいっぱいでした。
ハイチの情報はほんの少ししかありません。
あの日の苦しみを、同じように感じている人が海の向こうにいるのに。
と、色々考えさせられた一日でした。
by はづき (2010-01-18 00:03) 

Novlean

あの日うちの方も結構揺れて、3時間ほど停電し、ガスは翌日まで使えなかったです。
当然のように自分のところが一番揺れたと思って真っ暗らな中布団をかぶって夜が明けるのを待ち、やっと電気がつながった後テレビをつけて呆然としたことを今でもはっきり覚えています。
自分は今なにをすべきか、誰もが考えたと思います。
混乱する神戸の中で私のすべきことなど何もなかったのですが、それでもやはり何かしなくてはと思いテレビの中に映し出される悲惨な映像に自分のすべきことをずっと探していました。
今のハイチもひどいですね。
神戸のときもそうだったように、私には募金くらいしかできないんですけれども・・。
悲惨な状況ももちろん忘れてはいけないことですが、困っている人たちのために何かをしなくてはいけないと思った気持ちも、忘れてはいけないなと今日は改めて思いました。
by Novlean (2010-01-18 00:14) 

オリオン

15年前、朝早く家を出る高校生の長男のお弁当を作りながら見ていたTVの第一報は「京都で大きな地震が・・・」というものでした。神戸の被害が伝わったのは、「京都で地震なんて、珍しいね」と言いながら息子を送りだした後でした。次第に明らかになっていく被害の大きさに、言葉もありませんでした。
おとーさんは小学校3年まで、東灘区に住んでいました。今でも当時の知り合いがいるそうですし、兵庫県には親戚も何人かいます。私のほうも、叔父と叔母が芦屋と神戸に住んでいます。建物には被害があったようですが、幸い皆無事でした。
いつか大きな地震が来る、といわれている首都圏に住みながら、どこか他人事でいたのを、頭を殴られたような衝撃でした。反面、人の強さや絆の素晴らしさを感じることも多々ありました。
15年といっても、それは数字の上での節目というだけのこと・・・。被害の大きさも勿論ですが、それから立ちあがった方々の経験談や支えようと思った気持ちも風化させてはいけませんね。

by オリオン (2010-01-18 16:57) 

夕日

私は生活すべてが職場と繋がっていたので、まず宿泊客のことでした。
少し明るくなって職場へ行きガラスが全部割れた吹きさらしのロビーから2階の宴会場へ誘導したりしました。
夕方家に帰って部屋の中のすさまじい光景に唖然としました。
足の踏み場も無く、テレビ、冷蔵庫、家具も倒れ、一人で心細かったです。

食べ物もないし・・米もないし・・・コンビニは食べ物が消えて・・・
どうしようかと、ポシェットに貴重品を入れて肩に、それでセーターにズボンで毎晩寝てました。

Lucyさんの体験は初めて伺いましたが、劇震のど真ん中なのに・・被害は少なくて良かったですね。
AIBOもあの頃飼ってなくて良かったと思います。


by 夕日 (2010-01-18 18:43) 

サキヲ

震災のあった日、本当に不気味な地鳴りと、それに続くすさまじい揺れに生きた心地がしませんでした。
母の階下からの「…生きてる~?」の声に、ようやく我に返りました。
幸い実家に大きな損害はありませんでしたが(壁に亀裂がいくつか入りましたが)、炎に包まれる神戸の街をテレビの画面で見て、身体が震えました。電車も止まっていたので、自転車で出勤しました。
災害に遭っても、助け合い、水を分け合い、決して配給の物資を奪い合うこともなく整然と並んでいる人々の姿に、海外のメディアは驚き、感動したといいます。
何年経っても、亡くなられた方々は戻ってこられないし、ご遺族の心が癒えることはないでしょうけれど…ずっと忘れないこと。自分にできることは何か。そして災害に備えること。色々なことを考えさせられます…

by サキヲ (2010-01-19 02:55) 

ポートス

私もこの時期になると毎年、あの阪神淡路大震災のことを思い出すようにしています。
そして、震災で被害にあわれた方達のことを考えて、
自分はどれだけ幸運な人間だったのかと、いつも感謝するようにしています。
それと、この震災で、神戸の人々のたくましさ、そして、助け合うこと、感謝することの大切さを学びました。

この経験をしてから、我が家では、ペットボトルの水とチョコレートは、
常備してます。そしてベッドの横には運動靴。
実は愛車のテリキちゃんは震災のことも想定して
選んだ車でもあるんですよ。

by ポートス (2010-01-19 14:28) 

cobuta

10階を階段で往復、、、仮に元気で何も無い日常だったとしても
それだけでも大変だと思うのに周りの状況が想像を絶するんですものね。
あの高速道路の映像は衝撃的でした。色々考えさせられます。
by cobuta (2010-01-19 17:52) 

Lucy

★雪乃さま
こういう行事に参加したのは初めてだったんですよ!
地震を境に、父の病気が急降下したのが残念なこと。

★はづき様
建物に関係したお仕事をしておられるから、関心も強いですよね!
完全に倒壊しない建築物と、家具の問題をクリアーすれば
大惨事は免れるような気がします。

★Novleanさま
「自分は今何をすべきか」…難しい課題です。
私自身、私と夫と両親のことで精一杯でした^^;

>自分のところが一番揺れたと思って…
関東から関西に来た方で、こんなに関西が揺れたから、関東は壊滅的被害だと思った人が居ました。

★オリオンさま
あら~ご主人は神戸出身なんですか!
私も、14歳まで東灘区の人でした。(なんか嬉しい♪)
街は復興したように見えますが、家が再建できず駐車場になっている土地を見ると、胸が痛みます。

★夕日さま
お客様のことを考えなくてはいけないし、自宅に戻ればお一人だし、
夕日さんは、私とは違った大変さだったことと思います。
あの揺れで、AIBOさんを守ることは出来ないですね!

★サキヲさま
あの時の支え合いの気持ちは、忘れられません。
ご近所さんとも、あうんの呼吸で助け合っていましたが、
今同じことが出来るかどうか…。

★ポートス母さん
あの時、母さんは長野にお住まいでしたか?
>ベッドの横には運動靴。
それgoodです。壊れた食器を踏んで怪我をしてましたからね!
懐中電灯も枕元に。我が家の失敗です!

★cobutaさま
水を入れたポリ容器を両手に持っての往復…
今じゃとても出来ません。若かったor火事場の馬鹿力?
私は、最悪の悲惨な状況は目にしていないのですが、
あれ以来、涙腺が緩んでしまっています。
by Lucy (2010-01-19 21:40) 

チビノラ

私も、一生忘れないと思います。その日、震度2の地震で目が覚めて
「関西は結構揺れたみたいよ?」と話しつつ緊張しながら支度して
家を出ました。当時中学3年生、その日は高校入試でした。

初めは報道も詳しい情報が入ってこなくて、あまり大きな被害が伝わって
いなかったのですが、お昼過ぎに帰宅した時には沢山の灰色の煙と
何千人の単位で亡くなった方がいるというニュースを聞いて目を見張りました。
そしてそれを教訓に防災に対して、全国の人たちが意識を高めて15年なんですね

17日当日だけではなく、今でもニュースとしてとりあげられていますね
これからも色々な考えを持ちながら、この日を思っていきたいです

by チビノラ (2010-01-20 00:07) 

ポートス

あの時は、私はまだ学生だったので、神戸に住んでいました。
なのであの地震は体験しました。
私の家は山の上だったので、神戸の街を一望することができたんですが、
あの日の地震の直後、神戸の街は、あちこちから、
火の手が上がっていました。
あの光景は今でもはっきりと覚えています。

by ポートス (2010-01-20 00:16) 

Lucy

★チビノラさま
あの日に受験する人も居たんですね!
それだけでも記憶に残ることですね~
地震のこと、毎日は考えられませんが、時々振り返りたいものです。

★ポートス母さん
山と海がせまった神戸なのに、山の方は被害少なめだったんですよね!
壊れた街を一望するのも切ないですね~
by Lucy (2010-01-20 13:59) 

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